いよいよ社会人3年目を迎えた僕。
課も変わり心機一転頑張ろうと気持を新たにしていた4月。
社会人2年目の最後の方がモチベーションも下がっていて、中だるみになっていたから、それを払拭したかった。
だから、5月には10月の情報処理試験プロジェクトマネージャを受けることを決意。
毎日こつこつと行き帰りの電車で勉強しました。
5月には地球の歩き方のYさんからサークルとの取り組みについて改めて何か一緒にしましょうと声をかけていただきました。
このころから、打ち合わせの回数も増えていったなー。
仕事しながら、地球の歩き方さんとの打ち合わせもこなしていた自分はちょっとえらいなと自分でほめてしまいます(笑)
このころサークルでは色々あったなー。色々僕の知らないところで僕のことを言われていて・・・
それが僕の耳に入ってくることもたまにあって。。。
「どっからそんな話になってしまったの?」っていうような、全然身に覚えのないことを言われていたり、「それは事実と違う。こういう理由があるのに・・・」ってちゃんと言いたいことがあったり。
とにかくちょっと人間不信というかそういうのになりかけていました。
だけど、それは自分のせいだと、だからみんなに不信感を抱かせたのなら、僕なりの誠意をみせるしかないと言い聞かせました。
だから、サークルサイトの作りかえを頑張ったり、合宿の幹事も引き受けたり、地球の歩き方さんとの取り組みを頑張って、皆に還元できることを考えたり、サークルの中で頑張れることはがんばりました。
話は前後するかもしれないけど、サークルサイトでいろんな要望を挙げてもらって対応できるものはできるだけ早く対応しようとしたのも僕なりの誠意でした。
サークルの規約作ったり、練習会のやり方変えたり、そのやり方がちょっと急すぎて、「なんで何も相談なしにするの?」って余計不信感を抱かせてしまったりしたこともありました。
それは反省しています。
ただ、皆のためを思って自分なりにがんばったことというのは理解してもらいたいと厚かましいお願いになるかもしれないけど、それが本音です。
結局、自己満足なのではと言われれば確かにそうかもしれないけど、
僕の根底には「サークルに参加した人が一人でも多く、サークルに参加してよかったと思ってほしい」というのが変わらずあります。
上で書いたことに戻るけど、人間不信になるのではなく、そう思わせた自分を反省し、自分に不信感を抱いている人も受け入れることができ、その不信感をぬぐえるような人間にならなければと思いました。
まだまだそんな人にはなれていないし、色々とへこむことはあるけど、そういう人になりたいと目標をもてたことはこの1年で一番成長したことなのではと思います。
と同時に、サークルだけじゃなくて、仕事も頑張っている、マラソンも頑張っているというのは両親にアピールしたかった。
「サークルのことばっかりで仕事はしてるのか?」って言われたこともあったし。
だから、プロジェクトマネージャの試験に受かるのは半分意地でもありました。
ほんま合格できてよかった(*^_^*)
11月から3月までは、初めて自分が中心になって仕事をすることができました。
RFPっていって提案依頼書をまとめるのが自分のミッション。
事業部がやりたいと考えていることをヒアリングして、資料をまとめる。
自分で仕事を進め方を考えて、組み立てていくことを体験することができ、これまでで一番仕事が楽しいと思えるようになりました。
途中大変な時もあったけど、まとめあげた資料は今でも自分の誇りであり、今後の自信につながると思っています。
ただ、まだまだ自分には足りないこともたくさんあります。
それがこの4月の評価に表れていたと思います。
前なら、「なんで、これだけ頑張ったのに・・・」と感じ、すっかり凹んでしまっていたと思うけど、今は「確かに自分には足りないところがある」と自分を客観視できるようになったと思います。
ここも成長した部分かな。。。
そういえば、この前父親に「お前も成長した」と言われたのを思い出しました。(昔はよく父親に言われたことに対して反発して、喧嘩してたけど、父親の言うことを冷静にきくことができるようになったということに対して)
自分だけじゃなくて、父親にもそう思ってもらえたということが、励みにもなりました。
父親は「賢とお酒を飲みにいっても、すぐに喧嘩になるから、もう行くことできんのかなー。」と母親にこぼしていたそうです。
それはそれで悲しかったし、だって、よく父親の夢は息子と一緒に酒を飲むことってベタやけどよく聞いてたから。
それが僕の成長によって、一緒にお酒が飲めるようになれればと思っています。
マラソンでは10月に小さい大会やけど、5kmで2位入賞。
うれしくて父親に電話しました。
なんだかんだいって、ずっと昔からマラソン大会の結果がよければまっさきに連絡するのは父親です。
そして、12月のNAHAマラソン。
社会人になって初めてのフルマラソン。
サブスリーを達成することでマラソンも頑張ってきたということを証明したかった。
ほぼ毎日6時に起きて、練習してきてその成果を見せたかった。
フルマラソンの練習をきちんとしていなかったから、最後はぼろぼろになったけど、なんとか目標のサブスリーを達成することができました。
12月には地球の歩き方さんとの取り組みの集大成である「地球の走り方」サイトをオープンすることができました。
サークルメンバーにも協力してもらったところはたくさんあるし、僕がやってきたことは微力だったかもしれないけど、それでも形として結果を残すことができたことはうれしかった。
こうやって書いてみると、28歳は本当にがんばった1年だったといえるかな。
サークル
地球の歩き方との取り組み
仕事
勉強
マラソン
もちろん、それぞれにおいて、辛いことや厳しいこともありました。
時にはへこみ、モチベーションもかなり下がってしまったこともありました。
だけど、それでもなんとかつづけて、それなりに自分で納得できる結果を出してきたことは、自分の誇りです。
色々と反省すべきことはあると思います。
自分の心が狭くなってしまっていたことや、誰か人のせいにしたり、環境のせいにしたり・・・
なんであんなことを言ってしまったんやろ、なんであんなことをしてしまったんやろって思うこともたくさんありました。
あんまり思い出しはじめると、気分が沈む一方なのでこの辺で(笑)
とにかく、自分にとっては本当にいろいろと経験できた良い1年でした。
そして29歳。
20代最後を締めくくる、この1年は自分自身の今後につながる大きな1年にしたいと思います!
日々の記録
2011年4月13日水曜日
2011年4月12日火曜日
29歳
毎年誕生日を迎えるとこの自分史を更新することにしていますが、ここまでくるとなかなかいいもんやね。
もともと就職活動のために書いてみた自分史をこんなに長く続けることができるとは自分でも思っていなかったので、よくやってきたと思います。
もうここまできたら、やれるところまでやり続けたいと思います。
この29歳は自分にとって一生忘れることができない1年になったと思います。
どの歳も自分にとっては忘れなれないものだったけど、特に。。。
この1年はサークルとのかかわりがとても大きな一年だったかな。
合宿、5周年記念パーティー、関西のリーダー、サブリーダーを決め、それがきっかけで関西も盛り上がり始めたこと。
そしてメンバーが1000名を超えたこと。
ひとつ大きなことを成し遂げたということを実感しています。
一生の宝物を手に入れたと思っています。
WindRunのことは誰にでも自慢できます。
「継続は力なり」
この一言に尽きると思います。
もちろん、継続できたのは皆の支えがあったからです。
本当に感謝しています。
サークルのことは折に触れて書いているので、この1年を振り返るというところで敢えて多くは
語らなくてもいいと思うけど、仕事以外に力を入れて取り組めるものがあることを幸せに思っています。
一番の思い出は5周年記念パーティーの時にみんなが作ってくれたビデオメッセージ。
本当に胸が熱くなりました。
ああいうのをされる人になりたいって昔から思っていたから。
実際にされてみて、やっぱりいいもんやなーって思った。
そのほか大きなことといえばやっぱり結婚をしたこと。
30歳になるまでに結婚。なんとなく昔からそういうのを思い描いていました。
プロポーズをしたのは2009年1月やから、28歳時点でもう結婚することは決めていました。
結婚するって決めてから、相手の両親に会いに行ったり、こっちの両親に会ってもらったり・・・
どれも初めてのことだったので、頼りになるのはゼクシィでした(笑)
重い本を2冊買いました。
足の手術をした彼女の地元まで行って、マックで色々想像しながら読みふけったのを覚えています。
僕は、やるならちゃんとやりたいと思う方やから、結構積極的に協力したと自負しています(笑)
よく結婚式の準備で色々ともめることがあるとか、直前はかなり忙しくて大変とか聞いていたけど、
ほとんどそんなことはなかったと思います。
昔からそうやけど、何かやらないといけないことがあると、すぐにやってしまわないと気が済まないので。。。
その分、彼女は苦労したのかもしれません。あんまりそんなこと言わないからわからないけど、
結構疲れてたりしたのかもね。。。
一番思い出に残っているのは両家顔合わせです。
銀座のお店を予約して、お互いの両親の初対面。
自分が仕切ってやらないとだめなのではとあーだこーだ事前に考えました。
そんなこと気にし過ぎなくても、お互いの両親は色々と話をしてくれていたのでほっとしました。
まあ、そんなことはないと思っていたけど、たとえばお互いの両親のうまが合わずに・・・
なんてことも無くはないからね。
彼女の家族には大切にしてもらって(ありがたいことです)、地元の花火大会に呼んでもらったり、
おばあちゃんの喜寿のお祝いに呼んでもらったり、妹さんの卒業祝いに呼んでもらったり・・・
いつもご馳走になってばかりで本当に申し訳ないです。。
うちは両親が和歌山にいるから、こうやって温かく迎えてもらえてこっちにも家族ができたような
感じがします。
結婚式や新婚旅行については、すでにブログでかなり細かく書いたので(笑)省略するとして、
二人での生活は今のところ順調です。
お互いを尊重しあえているから、喧嘩することもほとんどないです。
これまで一人暮らしもしたことのなかった彼女が朝も晩もご飯を作ってくれ、たまにお弁当まで
作ってくれます。
それって大変なことやと思うよね。
感謝しています。
こうやって書いていってみて思うことは、やっぱり感謝の気持ちをもたないとだめっていうことやね。
29歳の僕はそれに気づかされることが多かったと思います。
特にサークル、結婚を通して気付いたと思います。
まだ感謝の気持ちをもつものの、それをどうやって表現するか、返すかっていうところまでは
いたっていないと思っています。
何らかの形で返したい・・・
もちろん返しきれないやろうけど。
単純にありがとうって言ったりすることもおろそかにしてしまっていたりするから、
そういう当たり前のことはできるようになりたい。
特に仕事ではそういう気持ちが足りなかったと思います。
人のせいにしたり、環境のせいにしたり・・・
それは良くないことやね。
どんなことに対しても、それをやらせてもらっていること自体に感謝しなければ、
そこで気付いたことに感謝しなければと今振り返って思います。
30歳になるまでにやりたいこと。
全部が達成できたわけじゃないけど、達成できたこともあります。
それは誇りやし、29歳にその達成に向けて色々とがんばったことは自分の成長にもつながったと思います。
30歳になった今、この10年を考えてみようと思います。
40歳になったとき、どうなっていたいか・・・
より具体的にイメージすることでその実現に近づくと思うんよね。
それを描いて、そこに到達するまでにこの30歳という1年、何をしなければならないかも考えてみようと思います。
もともと就職活動のために書いてみた自分史をこんなに長く続けることができるとは自分でも思っていなかったので、よくやってきたと思います。
もうここまできたら、やれるところまでやり続けたいと思います。
この29歳は自分にとって一生忘れることができない1年になったと思います。
どの歳も自分にとっては忘れなれないものだったけど、特に。。。
この1年はサークルとのかかわりがとても大きな一年だったかな。
合宿、5周年記念パーティー、関西のリーダー、サブリーダーを決め、それがきっかけで関西も盛り上がり始めたこと。
そしてメンバーが1000名を超えたこと。
ひとつ大きなことを成し遂げたということを実感しています。
一生の宝物を手に入れたと思っています。
WindRunのことは誰にでも自慢できます。
「継続は力なり」
この一言に尽きると思います。
もちろん、継続できたのは皆の支えがあったからです。
本当に感謝しています。
サークルのことは折に触れて書いているので、この1年を振り返るというところで敢えて多くは
語らなくてもいいと思うけど、仕事以外に力を入れて取り組めるものがあることを幸せに思っています。
一番の思い出は5周年記念パーティーの時にみんなが作ってくれたビデオメッセージ。
本当に胸が熱くなりました。
ああいうのをされる人になりたいって昔から思っていたから。
実際にされてみて、やっぱりいいもんやなーって思った。
そのほか大きなことといえばやっぱり結婚をしたこと。
30歳になるまでに結婚。なんとなく昔からそういうのを思い描いていました。
プロポーズをしたのは2009年1月やから、28歳時点でもう結婚することは決めていました。
結婚するって決めてから、相手の両親に会いに行ったり、こっちの両親に会ってもらったり・・・
どれも初めてのことだったので、頼りになるのはゼクシィでした(笑)
重い本を2冊買いました。
足の手術をした彼女の地元まで行って、マックで色々想像しながら読みふけったのを覚えています。
僕は、やるならちゃんとやりたいと思う方やから、結構積極的に協力したと自負しています(笑)
よく結婚式の準備で色々ともめることがあるとか、直前はかなり忙しくて大変とか聞いていたけど、
ほとんどそんなことはなかったと思います。
昔からそうやけど、何かやらないといけないことがあると、すぐにやってしまわないと気が済まないので。。。
その分、彼女は苦労したのかもしれません。あんまりそんなこと言わないからわからないけど、
結構疲れてたりしたのかもね。。。
一番思い出に残っているのは両家顔合わせです。
銀座のお店を予約して、お互いの両親の初対面。
自分が仕切ってやらないとだめなのではとあーだこーだ事前に考えました。
そんなこと気にし過ぎなくても、お互いの両親は色々と話をしてくれていたのでほっとしました。
まあ、そんなことはないと思っていたけど、たとえばお互いの両親のうまが合わずに・・・
なんてことも無くはないからね。
彼女の家族には大切にしてもらって(ありがたいことです)、地元の花火大会に呼んでもらったり、
おばあちゃんの喜寿のお祝いに呼んでもらったり、妹さんの卒業祝いに呼んでもらったり・・・
いつもご馳走になってばかりで本当に申し訳ないです。。
うちは両親が和歌山にいるから、こうやって温かく迎えてもらえてこっちにも家族ができたような
感じがします。
結婚式や新婚旅行については、すでにブログでかなり細かく書いたので(笑)省略するとして、
二人での生活は今のところ順調です。
お互いを尊重しあえているから、喧嘩することもほとんどないです。
これまで一人暮らしもしたことのなかった彼女が朝も晩もご飯を作ってくれ、たまにお弁当まで
作ってくれます。
それって大変なことやと思うよね。
感謝しています。
こうやって書いていってみて思うことは、やっぱり感謝の気持ちをもたないとだめっていうことやね。
29歳の僕はそれに気づかされることが多かったと思います。
特にサークル、結婚を通して気付いたと思います。
まだ感謝の気持ちをもつものの、それをどうやって表現するか、返すかっていうところまでは
いたっていないと思っています。
何らかの形で返したい・・・
もちろん返しきれないやろうけど。
単純にありがとうって言ったりすることもおろそかにしてしまっていたりするから、
そういう当たり前のことはできるようになりたい。
特に仕事ではそういう気持ちが足りなかったと思います。
人のせいにしたり、環境のせいにしたり・・・
それは良くないことやね。
どんなことに対しても、それをやらせてもらっていること自体に感謝しなければ、
そこで気付いたことに感謝しなければと今振り返って思います。
30歳になるまでにやりたいこと。
全部が達成できたわけじゃないけど、達成できたこともあります。
それは誇りやし、29歳にその達成に向けて色々とがんばったことは自分の成長にもつながったと思います。
30歳になった今、この10年を考えてみようと思います。
40歳になったとき、どうなっていたいか・・・
より具体的にイメージすることでその実現に近づくと思うんよね。
それを描いて、そこに到達するまでにこの30歳という1年、何をしなければならないかも考えてみようと思います。
2011年4月11日月曜日
卒業旅行
卒業旅行で行った、東欧について日程順に書いてみようと思います。旅行中にメモを取ってて良かった。メモ取ってなかったら、すっかり忘れてたはず(^_^;)
なんせ、旅行に行ったのが3月やのにこれ書いてるの5月やからねー。ゴールデンウィークを使って書いてみました。なかなか平日にはやる気がおきんくて・・・。働き出してからもHPの更新はちゃんとしようと思っていたのに。これはなんとかしないと、と気持ちを切り替えるために、思い切ってやりました。前、どっかで書いたような気がするけど、HPの更新はロールプレイングゲームと一緒でしばらくやらんと、なかなかやる気がおきんけど(前にどこまでやったか忘れてしまってるし、思い出すまでに時間がかかるから、面倒で(^_^;))、なんかきっかけがあって、再開すると面白くてどんどんできるんよねー。
写真をあんまり撮らへん、僕にとってはこの自分のHPがアルバムみたいなもんやから、定期的には更新できるようにしよう。
そもそも、HPの更新が滞ってしまってるのは、インターネットが未だに使えんという環境のせい。あっ、環境のせいにしたらあかんって、会社の研修で習ったのに(^_^;)
でも、実際・・・・・・・・・・・・・・・・
話、それすぎやわ。卒業旅行について、書きます。
?チェコ
1日目はチェコの観光。チェコに住む日本人のダンディさん(名前は忘れました。仕草、話し方がダンディやったからダンディさんと勝手に呼んでました)が案内してくれた。
プラハ城に到着。お城と言っても、城らしい建物はなかった。このプラハ城を中心に旧市街と呼ばれている辺りを含めて世界遺産に認定されている。それくらいきれいやった。(と言っても、スペインやポルトガルで見た建物とあんまり違いがわからんかった。世界遺産と聞いたので、良く見えたのかもしれん)
プラハ城内の教会に入った。チェコの人たちは素晴らしい技術を持っていた様で、ステンドグラスの目がスペインやポルトガルのよりもずっと細かかった。(これも、ダンディさんの話を聞かされるまで全く気付かんかったんやけどね(^_^;))
にしても、やたらと広い教会内はめちゃくちゃ寒かった。この寒い教会内でも顔色一つ変えないダンディさんは、さらに薄暗い教会内で色付きサングラスを外すことはなかった。そんなダンディさんの説明によると、この教会は戦災を受けることなく化粧直しだけで、現在に至るとのこと。教会を外から見ると、色が真っ黒の部分、やや黒ずんでいる部分、比較的きれいな部分にはっきりとわかれていた。真っ黒の部分は日本でいう室町時代から、そのままの形が残されているわけで・・・(ダンディさんの口癖)
教会を出ると雨が降っていた。ダンディさんは顔色を変えず、傘もささなかった。雨粒のついているサングラスも勿論外さなかった。
プラハ城から石畳の坂道を下り、カレル橋に到着。
現在のカレル橋は3代目で、この3代目の橋は絶対に崩れることがないよう45年かけて作ったわけで・・・
橋には一定の間隔で両端に銅像が建てられていた。「この右側の銅像の11体目がフランシスコ・ザビエルです。その銅像のところまで後ろは振り返らない方がいいでしょう。そこまで行って初めて後ろを振り返ると、先ほどのプラハ城の全体がきれいに見えるわけで・・・。」
さすがダンディさん。美しいものに対するこだわりは人一倍のみた!
勿論、ダンディさんオススメの絶景ポイントまで後ろを振り向くことは無かった。同じツアーに参加している人の中には、我慢しきれず銅像2体目で振り返ってる人もいた(早すぎやねー(^_^;))ザビエル像で後ろを振り返る。
!!
ほんまきれいに見えた。さすがダンディさん。さらに12体目の銅像のところで振り返る。
!?
同じように綺麗に見えた。まだまだ違いのわかる男にはなれていないみたいです・・・。
カレル橋を渡り、旧市街に入る。観光客の数がかなり多い。これだけ観光客がいるにも関わらず、街には目立ったゴミが落ちていなかった。さすが世界遺産は違うなー。ペットボトルを道端に発見・・・。たばこの吸殻発見・・・。
まだまだ違いのわかる男にはほど遠いみたいです(^_^;)
この地区では自由行動の時間が4時間あったので、地元のスーパーマーケットであるテスコに行く。外国のスーパーマーケットはなんか好き。(そういえばチェコのスーパーマーケットは朝8時半に行っても、もうにぎわっていた。チェコは朝6時くらいが通勤、通学のラッシュらしい。その分、会社や学校の終わる時間も早いらしいです。)
このスーパーマーケットの食品売り場に行く。入り口から入り、その商品の安さに驚きながら、出口を目指す。
あれ!?レジを通らないと出れやん!レジは一人通るのがやっとくらいの広さしかなかったから、何も買わずに脱出することは不可能!!「見てるだけ」のウィンドウショッピングは許されないようです・・・。仕方なくぺ○シコーラを購入(日本の半分くらいの値段でした。)なんとか脱出。後で、添乗員さんに聞くと、何も買わなくてもレジを通過すれば良かったみたいです。でも、あの幅の狭さだと通れんよなー(-_-;)
こんな感じで1日目のチェコ観光終了しました。
?スロバキア
チェコから電車に乗って、スロバキアに移動。乗車時間は4時間。この日は大雪で、乗る予定の電車も遅れた。寒い中、ホームで待つことに。服についた雪を見ると、きれいに結晶が見えた。小学校の頃、理科の教科書でしか見たことがなかったから感動!あの結晶って顕微鏡なくても見えるんやねー。デジカメでうまく結晶が撮れなかったのが残念・・・。
あまりに寒そうにしていたので、一緒のツアーに参加していたおばちゃんが「あまりにも不憫だから」と言って、レインコートを貸してくれました。また、他のおばちゃんにカイロももらいました。色んな意味で寒い人に見えていたんやろねー(^_^;)
4時間後・・・
スロバキア到着。
めっちゃ寒い。めっちゃ寒い。めっちゃ寒い・・・
スロバキア出発。
スロバキアの滞在時間はわずか2時間。今まで経験したことがないくらいの寒さでした。寒さで鼻や耳が痛くなるくらいやったから。
「この寒さを経験できただけでも良かった。この寒さを経験したから、明日からはある程度寒さに耐えられるねー。」皆口々にそう話していました。
次の日。ハンガリーにて・・・
ツアー参加者一同:「寒い、寒い。」
・・・
?ハンガリー
スロバキアからハンガリーの国境はバスで越えました。パスポートに押された入国のスタンプはバスのマークになっていました。今でこそ、入国はスムーズにできるようになったけど、(2005年にEUに加盟したから)何年か前までは、この入国審査に2、3時間かかっていたそうです。それにしても、パスポートをツアー客全員分、バスの運転手さんが持っていって、本人の確認をすることなく、流れ作業でスタンプを押してもらって、それで終了って。国境の意味あるんか・・・ボーダレスってこんな意味なんかな・・・
ハンガリーの首都、ブダペストに到着。
ブダ地区とペスト地区に分かれています。ブダは水を表し、ペストとはかまどを意味するそうです。(このほかにも、色々な説はあるそうですが、難しすぎて忘れてしまいました(^_^;))
そんな名前がつくくらいなので、温泉が有名とのこと。
そこで、温泉に入りに行きました。この温泉は水着を着て入ることができた。で、着替えに更衣室に入ると、ロッカーの鍵を閉めてくれるおっちゃんがいました。彼にロッカーの開閉をしてもらわないとダメとのこと。で、チップも払わないとダメらしい。やっぱり、このチップという習慣には慣れんわー。僕があまり海外に行きたくない理由の1つがこのチップ。どこで払うか、払わなくていいのかイマイチよくわからん。ホテルで枕チップをおいていくのに、小銭が必要やから、ホテルのフロントでお札を崩そうとしたら、ホテルマンに"No! All Japanese people small change…"考えることは皆同じです。日本だと小銭が増えると鬱陶しいけど、外国では小銭があると安心します。いちいちチップのこと考えて買い物したりするのが面倒です。僕だけなんかなーって思ってたら、同じツアーの人がスーパーで「これを買えば枕銭ができるからいいんじゃない?」って、チップのために買い物をしてました。
チップは鬱陶しいなーと思いつつ、おっちゃんにロッカーを閉めてもらい、温泉に。
ヨーロッパの人は熱いお風呂が苦手らしく、38℃と36℃の温泉しかなかった。日本人にはちょっとぬるいです。サウナもやっぱりちょっと温度低めでした。ヨーロッパの人は毛穴の数が多いか少ないか忘れたけど、そのために熱いのが苦手らしいです。
で、この温泉では水着を持っていない人は、ふんどしを借りられるというシステムのようでした。ふんどしを借りている人も多くいました。でも、ふんどしを前後逆につけて、おしりを隠している人が多かったです。何がしたかったんやろ・・・
あんまりきれいなお風呂じゃなかったです。何か色々浮いてました。ふんどし、浮いてました。おじいちゃんも浮いてました(すいません。泳いでいただけです。)
ちゃんと掃除してるんかなー。ロッカーの開け閉めより、浴槽掃除に精を出して欲しいです。鍵くらい自分で閉められるから!!もらったチップをきれいに並べてる場合じゃなくて、お風呂をきれいにして欲しいものです。日本は良い国だと実感しました。
?オーストリア
旅行最後の国はオーストリア。ウィーン市内の観光が中心やった。ちなみにウィーンは東京と同じく23区に分かれているらしい。ハプスブルグ家の夏の離宮シェーンブル宮殿、シシィ博物館を観光。どっちもめっちゃ広い。1000以上の部屋があるらしい。部屋から部屋に移動する。正直、いつになったらこの観光終わるん?って思ってしまった。それぞれの部屋には色々な絵画が掲げられていたけど、最後の方は違いがよくわからんかった。当時もどの部屋に飾られるかで、その画家の評価がわかれていたのかも。「お前、あの部屋だったらあんまり見てもらえんでー。」「そっちの部屋と代わって欲しいわー。」そんな声が聞えてきそうやった。
シシィ博物館はエリザベート(シシィ)の生涯がわかった。ヨーロッパ一美しいと言われただけあって、その美貌を保つための努力は相当なものだったらしい。絶対間食とかもせんかったんやろなー。これを書きながらチョコを食べている僕には絶対エリザベートにはなれんわー。いやー、間食せんでもなれんやろうけど・・・。自分に置き換えたら、パック○チョや、キテ○ランドが食べれんってことやろ・・・。美しくなるために払わなければならない代償が大きすぎるわー。
このシシィ博物館の混み具合がひどくて、頭が痛くなってきた。体調を崩す。海外旅行では体調を崩すという僕のお決まりのパターン。相変わらず体調管理が下手です。
それでも、ウィーンで泊まるホテルはヒルトンホテルだったので、テンションが上がる。
5つ星のホテルに泊まるのは初めて。25年間で一番素晴らしいホテルでした。
まず、ホテルのエントランスがめちゃくちゃ広い。さすがヒルトン。
朝食が25ユーロ。さすがヒルトン。
部屋にて。
電気のスイッチが押しやすい。さすがヒルトン。
ベッドが無駄にくっついてる。さすがヒルトン。
お風呂にちっちゃなアヒルの置物が!さすがヒルトン。
添乗員さんに聞いたら、このアヒルを持って帰ってもいいとのことなのでTake out!添乗員さんもアヒルをTake outしたみたいでした(^^)
ヒルトンにテンションが上がって、熱も上がってきたので、薬を飲んで就寝。
次の日は、ウィーン大学で研究をしているSさんと会いました。
日本をたつ時、メールを送っていて、それを読んでくれたSさんからホテルに直接電話があり、Sさんオススメのカフェで2時間くらいやったけどお話が出来ました。
オーストリアにはカフェが多いんやけど、これは昔オスマントルコ軍に占領された時、軍がコーヒー豆を置いていったからという説があるそうです。
Sさんは相変わらずすごい人でした。普通にドイツ語を話している姿がかっこよかったです。Sさんのお友達のOさんにも会いました。ドイツ人と日本人のハーフの方で、日本語もぺらぺらでした。しかもお母さんが和歌山出身ってことで、和歌山の方言で話していました。顔は外国人なのに和歌山の言葉を使う、そのギャップが面白かったです。またいつかお二人に会う機会があればと思います。
この日は自由行動やったから、地下鉄に乗って移動しました。
とある駅構内で、恐ろしい光景を目の当たりにした。観光客らしき2人組が4、5人のグループに囲まれ、果物ナイフをつきつけられ、脅されてました。恐喝やったんやろうけど、あんな人通りが多いところで普通にやってるのが衝撃やった。その2人組のすぐ近く歩いてたから、ターゲットが自分達になっててもおかしくなかった。
ほんま怖かったわー。脇の下にめっちゃ汗かいた。あのナイフは永遠の輝き。それ以降、駅の中は走って移動することに。、さすがに走りながら恐喝はできんやろ!
夜はオペラ鑑賞。セビリアの理髪師ロッシーニを見ました。オーストリアでは年間300以上オペラが開かれており、毎日満席になるそうです。でも毎日赤字なので、税金でまかなっているそうです。休憩時間になると、皆一斉に売店に飲み物を買いに行くんやけど、その売店の売り方が効率的じゃないわー。一人で1つの売店を切り盛りしてるから、全然まわってなかった。あれを変えれば少しは儲けが上がりそうな気もするんやけど・・・
ガイドブックによると、ジーパンでオペラに行くのは東洋人が多いらしいけど、やっぱり恥ずかしいと書かれていたので、旅行前日に急遽買ったズボン、現地で買ったネクタイを締めて、会場に行きました。
皆スーツやドレスで着飾っていました。やっぱ外国人は背が高いから、スーツやドレスが良く似合います。外国人コンプレックスです(>_<)ガイドブックにあるとおり、日本人観光客はラフすぎました。確かにやっぱりちょっと恥ずかしいかも。これだから日本人は・・・。
オペラ自体は素晴らしいものやから、聞く側もちゃんとしないと演者に失礼に当たるかもしれんねー。
・・・僕、半分以上寝てました・・・これだから日本人は・・・。
今回の旅行では4カ国周った。(スロバキアの滞在時間は短かったけど)
長時間飛行機に乗るのが苦手やし、チップの習慣はあるし、言葉はわからんし、テレビのCM長すぎるから海外旅行ってあんまり好きになれんけど、でも日本にいるだけやったら気付かんことにも気付けるし、(日本のサービスの素晴らしさとか)こうやって文章として思い出を形にもできるし、もう旅行終わってしまうんかーってちょっと寂しい気持ちも味わえる。
エコノミーの狭い席で旅行を思い出しながら旅行記、書いてみました。
なんせ、旅行に行ったのが3月やのにこれ書いてるの5月やからねー。ゴールデンウィークを使って書いてみました。なかなか平日にはやる気がおきんくて・・・。働き出してからもHPの更新はちゃんとしようと思っていたのに。これはなんとかしないと、と気持ちを切り替えるために、思い切ってやりました。前、どっかで書いたような気がするけど、HPの更新はロールプレイングゲームと一緒でしばらくやらんと、なかなかやる気がおきんけど(前にどこまでやったか忘れてしまってるし、思い出すまでに時間がかかるから、面倒で(^_^;))、なんかきっかけがあって、再開すると面白くてどんどんできるんよねー。
写真をあんまり撮らへん、僕にとってはこの自分のHPがアルバムみたいなもんやから、定期的には更新できるようにしよう。
そもそも、HPの更新が滞ってしまってるのは、インターネットが未だに使えんという環境のせい。あっ、環境のせいにしたらあかんって、会社の研修で習ったのに(^_^;)
でも、実際・・・・・・・・・・・・・・・・
話、それすぎやわ。卒業旅行について、書きます。
?チェコ
1日目はチェコの観光。チェコに住む日本人のダンディさん(名前は忘れました。仕草、話し方がダンディやったからダンディさんと勝手に呼んでました)が案内してくれた。
プラハ城に到着。お城と言っても、城らしい建物はなかった。このプラハ城を中心に旧市街と呼ばれている辺りを含めて世界遺産に認定されている。それくらいきれいやった。(と言っても、スペインやポルトガルで見た建物とあんまり違いがわからんかった。世界遺産と聞いたので、良く見えたのかもしれん)
プラハ城内の教会に入った。チェコの人たちは素晴らしい技術を持っていた様で、ステンドグラスの目がスペインやポルトガルのよりもずっと細かかった。(これも、ダンディさんの話を聞かされるまで全く気付かんかったんやけどね(^_^;))
にしても、やたらと広い教会内はめちゃくちゃ寒かった。この寒い教会内でも顔色一つ変えないダンディさんは、さらに薄暗い教会内で色付きサングラスを外すことはなかった。そんなダンディさんの説明によると、この教会は戦災を受けることなく化粧直しだけで、現在に至るとのこと。教会を外から見ると、色が真っ黒の部分、やや黒ずんでいる部分、比較的きれいな部分にはっきりとわかれていた。真っ黒の部分は日本でいう室町時代から、そのままの形が残されているわけで・・・(ダンディさんの口癖)
教会を出ると雨が降っていた。ダンディさんは顔色を変えず、傘もささなかった。雨粒のついているサングラスも勿論外さなかった。
プラハ城から石畳の坂道を下り、カレル橋に到着。
現在のカレル橋は3代目で、この3代目の橋は絶対に崩れることがないよう45年かけて作ったわけで・・・
橋には一定の間隔で両端に銅像が建てられていた。「この右側の銅像の11体目がフランシスコ・ザビエルです。その銅像のところまで後ろは振り返らない方がいいでしょう。そこまで行って初めて後ろを振り返ると、先ほどのプラハ城の全体がきれいに見えるわけで・・・。」
さすがダンディさん。美しいものに対するこだわりは人一倍のみた!
勿論、ダンディさんオススメの絶景ポイントまで後ろを振り向くことは無かった。同じツアーに参加している人の中には、我慢しきれず銅像2体目で振り返ってる人もいた(早すぎやねー(^_^;))ザビエル像で後ろを振り返る。
!!
ほんまきれいに見えた。さすがダンディさん。さらに12体目の銅像のところで振り返る。
!?
同じように綺麗に見えた。まだまだ違いのわかる男にはなれていないみたいです・・・。
カレル橋を渡り、旧市街に入る。観光客の数がかなり多い。これだけ観光客がいるにも関わらず、街には目立ったゴミが落ちていなかった。さすが世界遺産は違うなー。ペットボトルを道端に発見・・・。たばこの吸殻発見・・・。
まだまだ違いのわかる男にはほど遠いみたいです(^_^;)
この地区では自由行動の時間が4時間あったので、地元のスーパーマーケットであるテスコに行く。外国のスーパーマーケットはなんか好き。(そういえばチェコのスーパーマーケットは朝8時半に行っても、もうにぎわっていた。チェコは朝6時くらいが通勤、通学のラッシュらしい。その分、会社や学校の終わる時間も早いらしいです。)
このスーパーマーケットの食品売り場に行く。入り口から入り、その商品の安さに驚きながら、出口を目指す。
あれ!?レジを通らないと出れやん!レジは一人通るのがやっとくらいの広さしかなかったから、何も買わずに脱出することは不可能!!「見てるだけ」のウィンドウショッピングは許されないようです・・・。仕方なくぺ○シコーラを購入(日本の半分くらいの値段でした。)なんとか脱出。後で、添乗員さんに聞くと、何も買わなくてもレジを通過すれば良かったみたいです。でも、あの幅の狭さだと通れんよなー(-_-;)
こんな感じで1日目のチェコ観光終了しました。
?スロバキア
チェコから電車に乗って、スロバキアに移動。乗車時間は4時間。この日は大雪で、乗る予定の電車も遅れた。寒い中、ホームで待つことに。服についた雪を見ると、きれいに結晶が見えた。小学校の頃、理科の教科書でしか見たことがなかったから感動!あの結晶って顕微鏡なくても見えるんやねー。デジカメでうまく結晶が撮れなかったのが残念・・・。
あまりに寒そうにしていたので、一緒のツアーに参加していたおばちゃんが「あまりにも不憫だから」と言って、レインコートを貸してくれました。また、他のおばちゃんにカイロももらいました。色んな意味で寒い人に見えていたんやろねー(^_^;)
4時間後・・・
スロバキア到着。
めっちゃ寒い。めっちゃ寒い。めっちゃ寒い・・・
スロバキア出発。
スロバキアの滞在時間はわずか2時間。今まで経験したことがないくらいの寒さでした。寒さで鼻や耳が痛くなるくらいやったから。
「この寒さを経験できただけでも良かった。この寒さを経験したから、明日からはある程度寒さに耐えられるねー。」皆口々にそう話していました。
次の日。ハンガリーにて・・・
ツアー参加者一同:「寒い、寒い。」
・・・
?ハンガリー
スロバキアからハンガリーの国境はバスで越えました。パスポートに押された入国のスタンプはバスのマークになっていました。今でこそ、入国はスムーズにできるようになったけど、(2005年にEUに加盟したから)何年か前までは、この入国審査に2、3時間かかっていたそうです。それにしても、パスポートをツアー客全員分、バスの運転手さんが持っていって、本人の確認をすることなく、流れ作業でスタンプを押してもらって、それで終了って。国境の意味あるんか・・・ボーダレスってこんな意味なんかな・・・
ハンガリーの首都、ブダペストに到着。
ブダ地区とペスト地区に分かれています。ブダは水を表し、ペストとはかまどを意味するそうです。(このほかにも、色々な説はあるそうですが、難しすぎて忘れてしまいました(^_^;))
そんな名前がつくくらいなので、温泉が有名とのこと。
そこで、温泉に入りに行きました。この温泉は水着を着て入ることができた。で、着替えに更衣室に入ると、ロッカーの鍵を閉めてくれるおっちゃんがいました。彼にロッカーの開閉をしてもらわないとダメとのこと。で、チップも払わないとダメらしい。やっぱり、このチップという習慣には慣れんわー。僕があまり海外に行きたくない理由の1つがこのチップ。どこで払うか、払わなくていいのかイマイチよくわからん。ホテルで枕チップをおいていくのに、小銭が必要やから、ホテルのフロントでお札を崩そうとしたら、ホテルマンに"No! All Japanese people small change…"考えることは皆同じです。日本だと小銭が増えると鬱陶しいけど、外国では小銭があると安心します。いちいちチップのこと考えて買い物したりするのが面倒です。僕だけなんかなーって思ってたら、同じツアーの人がスーパーで「これを買えば枕銭ができるからいいんじゃない?」って、チップのために買い物をしてました。
チップは鬱陶しいなーと思いつつ、おっちゃんにロッカーを閉めてもらい、温泉に。
ヨーロッパの人は熱いお風呂が苦手らしく、38℃と36℃の温泉しかなかった。日本人にはちょっとぬるいです。サウナもやっぱりちょっと温度低めでした。ヨーロッパの人は毛穴の数が多いか少ないか忘れたけど、そのために熱いのが苦手らしいです。
で、この温泉では水着を持っていない人は、ふんどしを借りられるというシステムのようでした。ふんどしを借りている人も多くいました。でも、ふんどしを前後逆につけて、おしりを隠している人が多かったです。何がしたかったんやろ・・・
あんまりきれいなお風呂じゃなかったです。何か色々浮いてました。ふんどし、浮いてました。おじいちゃんも浮いてました(すいません。泳いでいただけです。)
ちゃんと掃除してるんかなー。ロッカーの開け閉めより、浴槽掃除に精を出して欲しいです。鍵くらい自分で閉められるから!!もらったチップをきれいに並べてる場合じゃなくて、お風呂をきれいにして欲しいものです。日本は良い国だと実感しました。
?オーストリア
旅行最後の国はオーストリア。ウィーン市内の観光が中心やった。ちなみにウィーンは東京と同じく23区に分かれているらしい。ハプスブルグ家の夏の離宮シェーンブル宮殿、シシィ博物館を観光。どっちもめっちゃ広い。1000以上の部屋があるらしい。部屋から部屋に移動する。正直、いつになったらこの観光終わるん?って思ってしまった。それぞれの部屋には色々な絵画が掲げられていたけど、最後の方は違いがよくわからんかった。当時もどの部屋に飾られるかで、その画家の評価がわかれていたのかも。「お前、あの部屋だったらあんまり見てもらえんでー。」「そっちの部屋と代わって欲しいわー。」そんな声が聞えてきそうやった。
シシィ博物館はエリザベート(シシィ)の生涯がわかった。ヨーロッパ一美しいと言われただけあって、その美貌を保つための努力は相当なものだったらしい。絶対間食とかもせんかったんやろなー。これを書きながらチョコを食べている僕には絶対エリザベートにはなれんわー。いやー、間食せんでもなれんやろうけど・・・。自分に置き換えたら、パック○チョや、キテ○ランドが食べれんってことやろ・・・。美しくなるために払わなければならない代償が大きすぎるわー。
このシシィ博物館の混み具合がひどくて、頭が痛くなってきた。体調を崩す。海外旅行では体調を崩すという僕のお決まりのパターン。相変わらず体調管理が下手です。
それでも、ウィーンで泊まるホテルはヒルトンホテルだったので、テンションが上がる。
5つ星のホテルに泊まるのは初めて。25年間で一番素晴らしいホテルでした。
まず、ホテルのエントランスがめちゃくちゃ広い。さすがヒルトン。
朝食が25ユーロ。さすがヒルトン。
部屋にて。
電気のスイッチが押しやすい。さすがヒルトン。
ベッドが無駄にくっついてる。さすがヒルトン。
お風呂にちっちゃなアヒルの置物が!さすがヒルトン。
添乗員さんに聞いたら、このアヒルを持って帰ってもいいとのことなのでTake out!添乗員さんもアヒルをTake outしたみたいでした(^^)
ヒルトンにテンションが上がって、熱も上がってきたので、薬を飲んで就寝。
次の日は、ウィーン大学で研究をしているSさんと会いました。
日本をたつ時、メールを送っていて、それを読んでくれたSさんからホテルに直接電話があり、Sさんオススメのカフェで2時間くらいやったけどお話が出来ました。
オーストリアにはカフェが多いんやけど、これは昔オスマントルコ軍に占領された時、軍がコーヒー豆を置いていったからという説があるそうです。
Sさんは相変わらずすごい人でした。普通にドイツ語を話している姿がかっこよかったです。Sさんのお友達のOさんにも会いました。ドイツ人と日本人のハーフの方で、日本語もぺらぺらでした。しかもお母さんが和歌山出身ってことで、和歌山の方言で話していました。顔は外国人なのに和歌山の言葉を使う、そのギャップが面白かったです。またいつかお二人に会う機会があればと思います。
この日は自由行動やったから、地下鉄に乗って移動しました。
とある駅構内で、恐ろしい光景を目の当たりにした。観光客らしき2人組が4、5人のグループに囲まれ、果物ナイフをつきつけられ、脅されてました。恐喝やったんやろうけど、あんな人通りが多いところで普通にやってるのが衝撃やった。その2人組のすぐ近く歩いてたから、ターゲットが自分達になっててもおかしくなかった。
ほんま怖かったわー。脇の下にめっちゃ汗かいた。あのナイフは永遠の輝き。それ以降、駅の中は走って移動することに。、さすがに走りながら恐喝はできんやろ!
夜はオペラ鑑賞。セビリアの理髪師ロッシーニを見ました。オーストリアでは年間300以上オペラが開かれており、毎日満席になるそうです。でも毎日赤字なので、税金でまかなっているそうです。休憩時間になると、皆一斉に売店に飲み物を買いに行くんやけど、その売店の売り方が効率的じゃないわー。一人で1つの売店を切り盛りしてるから、全然まわってなかった。あれを変えれば少しは儲けが上がりそうな気もするんやけど・・・
ガイドブックによると、ジーパンでオペラに行くのは東洋人が多いらしいけど、やっぱり恥ずかしいと書かれていたので、旅行前日に急遽買ったズボン、現地で買ったネクタイを締めて、会場に行きました。
皆スーツやドレスで着飾っていました。やっぱ外国人は背が高いから、スーツやドレスが良く似合います。外国人コンプレックスです(>_<)ガイドブックにあるとおり、日本人観光客はラフすぎました。確かにやっぱりちょっと恥ずかしいかも。これだから日本人は・・・。
オペラ自体は素晴らしいものやから、聞く側もちゃんとしないと演者に失礼に当たるかもしれんねー。
・・・僕、半分以上寝てました・・・これだから日本人は・・・。
今回の旅行では4カ国周った。(スロバキアの滞在時間は短かったけど)
長時間飛行機に乗るのが苦手やし、チップの習慣はあるし、言葉はわからんし、テレビのCM長すぎるから海外旅行ってあんまり好きになれんけど、でも日本にいるだけやったら気付かんことにも気付けるし、(日本のサービスの素晴らしさとか)こうやって文章として思い出を形にもできるし、もう旅行終わってしまうんかーってちょっと寂しい気持ちも味わえる。
エコノミーの狭い席で旅行を思い出しながら旅行記、書いてみました。
2011年4月10日日曜日
僕とマラソン
■はじめに
-----------------------------------------------------
先日、祖父が僕の昔の記録を送ってくれた。新聞を切り抜いて、僕の名前の横には線も引かれていた。ここまでしてくれていたなんて・・・。嬉しいです(>_<)
その記事を一つずつ見直してみると、僕が小学校の頃に書いた作文が出てきた。地元の創作会っていう作文コンクールで準入賞した作品やった。懐かしくて読み返してみた。小学生にしてはなかなかよく書けてるやん!自分。って自画自賛してしまった。
今回はそんな小学校の頃の自分の作文を掲載しようと思う。
■ぼくとマラソン
-----------------------------------------------------
「スタート10秒前。位置について、用意、バン。」
今日は、日置のリバーサイドマラソン。今までに、何度もマラソンの大会に出たことはあるけれど、今日はいつもとちがう。朝起きた時からそうだった。いつもなら、緊張するはずなのに、反対に、絶対に最後まで走ってやるというやる気満々の気持ちであった。それに、今日は今までにない、一番良いマラソンになりそうな予感がしたからだ。
ついにぼくたちがスタートした。この前の郡陸競でぼくが負けたK君もいた。でも、ぼくはそんなこと気にしなかった。そして思い切って一番にでた。ぼくは、「やっぱり一番は気持ちがいいなあ。」と思いながら走った。
普通なら、落ちてくるはずのスピードもどんどん上がっていき、まるで風を切って走っているような気持ちになった。
みんなが、「がんばれ、がんばれ。」と旗を振りながら応援してくれた。それが、ぼくのエンジンをフル回転にしてくれた。
1キロを過ぎた地点で2位と一気に差をつけた。ぼくは走っている途中、前までのマラソンのことを思い浮かべた。とても苦しかった練習。何度もやめたいと思ったことがあった。それにくやしかった2位。「でも今は、ぼくが一番で走っているんだ。」そう思うと、なんだか夢のような感じがして、「夢よ、まださめないで。」とさけびたくなるような気分になった。
とても長い直線に入った。直線なのに、ぜんぜん先が見えない。気の遠くなるような直線だ。まるで終わりのない道を走らされているような気分になった。でも、ぼくは、「ここで、自分に負けてたまるか。」と思い、歯がぎしぎし鳴るくらいまでくいしばって、腕を大きく早く振った。
ようやく長い直線も終わった。そして、とうとう残り1キロ。もうだいぶ息切れしてきた。走る前は機関車のけむりのように白かった息も、今はもう見えない。残り1キロになると、ぐっと体中に力が入り、全力で走った。少し後ろのことが気になった。また前の郡陸競のときみたいに最後でぬかされそうな気がしたからだ。しかし、後ろには、だれも見えなかった。「こんなに後ろと差があいたのは初めてだ。」といううれしい気持ちになりながらも、「これからが本当の勝負だ。」という気持ちの方が強かった。
ラスト400メートル。ここからが急な上り坂だ。ぼくは、少し前かがみになりつまさきだけで走った。でも、その坂は、天にもつながらんばかりの長さだった。それに、足や手は鉛のように重たくて上がらなかった。でも、ぼくの心には、「1位でゴールのテープを切りたい。」という気持ちが沸き起こった。ぼくは、自分の心にムチを入れ、思いっきり振り上げた。
坂を上りきった。残り200メートル。体中に残っている力を全部、足と腕に集中させ、ラストスパートをかけた。日置小学校のグラウンドに入ると、みんなが拍手でむかえてくれた。まるでスーパースターになったような感じがした。
「やったー。」
1位でぼくは、テープを切った。ぼくは腕を思い切り高く振り上げ、ガッツポーズでゴールした。
ゴールしたとたん、体中の力がなくなりたおれこんだ。すると、すぐそこにお母さんがかけよってきてくれた。そして、「よかったなあ。よう、がんばったで。」と言ってほめてくれた。
妹やお父さんも1位でゴールした。お父さんが、ゴールしたと同時に、ぼくは、お父さんに近寄っていった。それは、お父さんにぼくが1位をとったことを言いたかったからだ。
お父さんは、ぼくにいろいろ指導してくれた。練習の時は厳しいけれど、普段は優しいお父さん。そんなお父さんだから、少しでも早く1位をとったことをつたえたかった。
「お父さん、ぼく1位だったで。」
そう言うとお父さんは、自分が1位をとったことよりも、ぼくが1位をとったことの方がうれしいようで、ぼくの肩をぽんぽんとたたいて、「よかったなあ。おめでとう。」と言ってくれた。
こんなにみんなが喜んでくれたのは初めてだった。
今日のマラソンは、最高の思い出だ。そしてぼくはこう思った。
「もっともっとがんばってテレビに出れるような、とても速いマラソン選手になるぞ。」
■評
-----------------------------------------------------
この作文に対する評価も掲載します。
読み手をひきつける書き出しがいいですね。今までにない一番よいマラソンになりそうだとの予感通り、終始好調な走りを続ける平野君の様子が心の動きとともによく表現されていてよい作品です。
とのことです。作文にもあるけど、「今日は今までにない一番よいマラソンになる」なんて、走る前からわかるはずないやんねー(^_^;)。終わった後ならなんとでも言えるしね(^_^;)。でも、僕は毎回どんな大会でも今回はきっとよい走りができるはずやと自分に言い聞かせて走っています。今までにないって大げさかもしれんけど、今回はベストのタイムを出すって気持ちで毎回走ってるから嘘っていうわけでもないんやけどねー。
後、作文内では群陸競で負けた相手をK君にしてるけど、ほんまの作文では本名書いてたんよね。そんで、それが新聞に載ったから、これ大丈夫なんか、また敵視されるんじゃないかと親は心配してました。
このK君とは小学校の頃、ライバルでした。S&Bちびっ子マラソンの地区大会で僕が優勝した時、父親が伴走したとかって文句を言ってきて、かなりもめました。いい思い出です。(良いんかはわからんけど・・・)
この作文を久しぶりに読み返して、当時のことを鮮明に思い出すことができた!
そして、改めて走ることを頑張っていこうと思いました。
おじいちゃん、新聞とってくれててありがとう!!
-----------------------------------------------------
先日、祖父が僕の昔の記録を送ってくれた。新聞を切り抜いて、僕の名前の横には線も引かれていた。ここまでしてくれていたなんて・・・。嬉しいです(>_<)
その記事を一つずつ見直してみると、僕が小学校の頃に書いた作文が出てきた。地元の創作会っていう作文コンクールで準入賞した作品やった。懐かしくて読み返してみた。小学生にしてはなかなかよく書けてるやん!自分。って自画自賛してしまった。
今回はそんな小学校の頃の自分の作文を掲載しようと思う。
■ぼくとマラソン
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「スタート10秒前。位置について、用意、バン。」
今日は、日置のリバーサイドマラソン。今までに、何度もマラソンの大会に出たことはあるけれど、今日はいつもとちがう。朝起きた時からそうだった。いつもなら、緊張するはずなのに、反対に、絶対に最後まで走ってやるというやる気満々の気持ちであった。それに、今日は今までにない、一番良いマラソンになりそうな予感がしたからだ。
ついにぼくたちがスタートした。この前の郡陸競でぼくが負けたK君もいた。でも、ぼくはそんなこと気にしなかった。そして思い切って一番にでた。ぼくは、「やっぱり一番は気持ちがいいなあ。」と思いながら走った。
普通なら、落ちてくるはずのスピードもどんどん上がっていき、まるで風を切って走っているような気持ちになった。
みんなが、「がんばれ、がんばれ。」と旗を振りながら応援してくれた。それが、ぼくのエンジンをフル回転にしてくれた。
1キロを過ぎた地点で2位と一気に差をつけた。ぼくは走っている途中、前までのマラソンのことを思い浮かべた。とても苦しかった練習。何度もやめたいと思ったことがあった。それにくやしかった2位。「でも今は、ぼくが一番で走っているんだ。」そう思うと、なんだか夢のような感じがして、「夢よ、まださめないで。」とさけびたくなるような気分になった。
とても長い直線に入った。直線なのに、ぜんぜん先が見えない。気の遠くなるような直線だ。まるで終わりのない道を走らされているような気分になった。でも、ぼくは、「ここで、自分に負けてたまるか。」と思い、歯がぎしぎし鳴るくらいまでくいしばって、腕を大きく早く振った。
ようやく長い直線も終わった。そして、とうとう残り1キロ。もうだいぶ息切れしてきた。走る前は機関車のけむりのように白かった息も、今はもう見えない。残り1キロになると、ぐっと体中に力が入り、全力で走った。少し後ろのことが気になった。また前の郡陸競のときみたいに最後でぬかされそうな気がしたからだ。しかし、後ろには、だれも見えなかった。「こんなに後ろと差があいたのは初めてだ。」といううれしい気持ちになりながらも、「これからが本当の勝負だ。」という気持ちの方が強かった。
ラスト400メートル。ここからが急な上り坂だ。ぼくは、少し前かがみになりつまさきだけで走った。でも、その坂は、天にもつながらんばかりの長さだった。それに、足や手は鉛のように重たくて上がらなかった。でも、ぼくの心には、「1位でゴールのテープを切りたい。」という気持ちが沸き起こった。ぼくは、自分の心にムチを入れ、思いっきり振り上げた。
坂を上りきった。残り200メートル。体中に残っている力を全部、足と腕に集中させ、ラストスパートをかけた。日置小学校のグラウンドに入ると、みんなが拍手でむかえてくれた。まるでスーパースターになったような感じがした。
「やったー。」
1位でぼくは、テープを切った。ぼくは腕を思い切り高く振り上げ、ガッツポーズでゴールした。
ゴールしたとたん、体中の力がなくなりたおれこんだ。すると、すぐそこにお母さんがかけよってきてくれた。そして、「よかったなあ。よう、がんばったで。」と言ってほめてくれた。
妹やお父さんも1位でゴールした。お父さんが、ゴールしたと同時に、ぼくは、お父さんに近寄っていった。それは、お父さんにぼくが1位をとったことを言いたかったからだ。
お父さんは、ぼくにいろいろ指導してくれた。練習の時は厳しいけれど、普段は優しいお父さん。そんなお父さんだから、少しでも早く1位をとったことをつたえたかった。
「お父さん、ぼく1位だったで。」
そう言うとお父さんは、自分が1位をとったことよりも、ぼくが1位をとったことの方がうれしいようで、ぼくの肩をぽんぽんとたたいて、「よかったなあ。おめでとう。」と言ってくれた。
こんなにみんなが喜んでくれたのは初めてだった。
今日のマラソンは、最高の思い出だ。そしてぼくはこう思った。
「もっともっとがんばってテレビに出れるような、とても速いマラソン選手になるぞ。」
■評
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この作文に対する評価も掲載します。
読み手をひきつける書き出しがいいですね。今までにない一番よいマラソンになりそうだとの予感通り、終始好調な走りを続ける平野君の様子が心の動きとともによく表現されていてよい作品です。
とのことです。作文にもあるけど、「今日は今までにない一番よいマラソンになる」なんて、走る前からわかるはずないやんねー(^_^;)。終わった後ならなんとでも言えるしね(^_^;)。でも、僕は毎回どんな大会でも今回はきっとよい走りができるはずやと自分に言い聞かせて走っています。今までにないって大げさかもしれんけど、今回はベストのタイムを出すって気持ちで毎回走ってるから嘘っていうわけでもないんやけどねー。
後、作文内では群陸競で負けた相手をK君にしてるけど、ほんまの作文では本名書いてたんよね。そんで、それが新聞に載ったから、これ大丈夫なんか、また敵視されるんじゃないかと親は心配してました。
このK君とは小学校の頃、ライバルでした。S&Bちびっ子マラソンの地区大会で僕が優勝した時、父親が伴走したとかって文句を言ってきて、かなりもめました。いい思い出です。(良いんかはわからんけど・・・)
この作文を久しぶりに読み返して、当時のことを鮮明に思い出すことができた!
そして、改めて走ることを頑張っていこうと思いました。
おじいちゃん、新聞とってくれててありがとう!!
2011年4月9日土曜日
大学受験
国立の大学受験も終わり、もうそろそろ結果も出始めている頃だと思います。この時季になるといつも自分の昔を思い出します。
辛い、もうその一言でした。自己紹介の欄にも書いてるけど、さらに詳しく書くと、合格発表のとき、妹はある雑誌のインタビューを受けていました。その間、僕は廃人のように近くで座って待っていました。「あー、もしここで僕も合格していたら、年子で合格とかいう見出しで雑誌に載ることができてたんやろなー。うまくいけばテレビにも出れてたんかなー。」なんて、妄想が膨らんでいました。もう今という現実をどうしても受け入れたくないと思っていたに違いありません。この一年は本当に無駄やったんやろーか、支えてくれた両親や周りの皆にはなんて言えばいいのか・・・。正直言うと、僕は結構、浪人する時から引け目を感じていました。妹は予備校に入る時、模試の成績がよく割引で入れたんやけど、僕はほとんど割り引いてもらえませんでした。なんか、僕って金かかる子どもなんやなーって思いながら。成績もそれほどよくなかったし、両親、特に父親にとってみたら危なっかしくて見てられないといった感じだったかもしれません。妹みたいにもっと安定した成績をとって安心させてあげたい。まあ、一度も安心をさせるような成績をとれたことはなかったかもしれません。
そんなことをいろいろ思い出しながら妹と帰りました。妹はもっと合格の喜びをかみしめたかったはずやのに・・・。
中学校から私立に通い、電車で片道2時間近くかけて通学し、それを3年間も続けた。中学校時代の勉強時間の差はめちゃくちゃあったと思います。正直、中学校の時、妹としゃべったという記憶すらほとんどありません。まあ、それくらい妹は勉強していたということです。そんな妹やからこそ合格したんやと思います。兄妹なんやからもともとの差ってそんなにあるはずはないと思う。僕は今でも何かするとき、ほんまこれが努力できる限界なんかって自分に聞いてみる。まだできるんじゃないん?こんなんで胸張って努力したっていえるん?多分、妹やったらもっとやってるんじゃないん?妹、妹と引き合いに出すのは悪いかもしれんけど、近くにこれほど目標にできる人がいるのは幸せなことやと思う。
そんなわけでほんま努力してきた妹やから、大学に合格した喜びはもう言葉では言い表すことができないものだったと思う。それでも、この世の終わりを見たというような顔している僕を放ってはおけないと思ったのか一緒に帰ってくれた。まあ、あらぬことを考えているのではという心配もあったのかもしれない・・・。本当に申し訳ないことをしたと思う。結婚式と同じように大学受験の合格だって、普通人生で一回しか味わうことができない大きな感動やと思う。それをあんな形で終わらせてしまったことは後悔しています。もっと僕が気丈に振舞っていれば・・・。まあ、今やから言えることで当時、僕にそんな余裕はありませんでした。
天国と地獄が一緒に歩いている、そんな感じで周りの人は感じていたのかもしれません。
重い足を引きずりながら家に帰り、妹がお風呂に入っている時に、母親から電話がありました。
母親:「○○(妹の名前)は?」僕:「今お風呂。」母親:「いつ頃出るん?」僕:「わからん。」母親:「まあ、またお風呂でたら電話するように言うて。」僕に気を遣ってくれたのか僕のことには一切触れませんでした。でも、それが僕にとっては悔しくて、ぶち切れてしまいました。「そんな○○、○○いわんといてくれ!僕は落ちてるんやぞ!僕がどれだけ頑張ってきたか、そのこともしらんくせに、○○ばっかり言うな。ちょっとは落ちた僕の気持ちも考えろ!」そう、泣きながら言いました。そして、電話をたたきつけるように切りました。その日はもう電話は鳴ることはありませんでした。
自分の失敗を誰かのせいにして、もう何もかもが信じれなくなっていました。
夜は悔しくて、悔しくてなかなか眠れませんでした。でも、眠っている間だけでもこの悔しさを忘れられると思い、なんとか寝ようとしました。見た夢は「実は昨日の合格発表は予行で、本当の発表は今日です。っていうテレビでの放送があり、発表を見に行って、見事に合格していた。」というあまりに悲しい夢でした。起きて、夢だったことに気付くと涙がとまりませんでした。
大学の合格発表から数日は本当に辛かったことを覚えています。それでも、今は良い思い出だといえます。
それは、自分では後悔しないくらいに努力したと胸を張っていえるから。僕にできることは全てやったといえます。
努力したかどうかそれを決めるのは自分。周りから見て、そんなに努力しているように見えなくても、自分が努力したといえるのならそれでもいいと思う。
ただ、ある人と比べて自分はまだまだ努力が足りない、と思えるような人が近くにいるのなら、それは本当に幸せなことやと思う。そういう人が近くにいれば、やっぱり周りは比べてくるやろうけど。「お前はあいつ程努力してない!」っていう風に。その時は腹が立つし、人と比べるなって思うかもしれないけど、でも、自分はまだまだや、もっともっと可能性があるって思えることも事実やと思う。
僕には努力するという環境が整っていました。そして、僕がこのメッセージを伝えたい人にもその環境が整っていると僕は思っています。
辛い、もうその一言でした。自己紹介の欄にも書いてるけど、さらに詳しく書くと、合格発表のとき、妹はある雑誌のインタビューを受けていました。その間、僕は廃人のように近くで座って待っていました。「あー、もしここで僕も合格していたら、年子で合格とかいう見出しで雑誌に載ることができてたんやろなー。うまくいけばテレビにも出れてたんかなー。」なんて、妄想が膨らんでいました。もう今という現実をどうしても受け入れたくないと思っていたに違いありません。この一年は本当に無駄やったんやろーか、支えてくれた両親や周りの皆にはなんて言えばいいのか・・・。正直言うと、僕は結構、浪人する時から引け目を感じていました。妹は予備校に入る時、模試の成績がよく割引で入れたんやけど、僕はほとんど割り引いてもらえませんでした。なんか、僕って金かかる子どもなんやなーって思いながら。成績もそれほどよくなかったし、両親、特に父親にとってみたら危なっかしくて見てられないといった感じだったかもしれません。妹みたいにもっと安定した成績をとって安心させてあげたい。まあ、一度も安心をさせるような成績をとれたことはなかったかもしれません。
そんなことをいろいろ思い出しながら妹と帰りました。妹はもっと合格の喜びをかみしめたかったはずやのに・・・。
中学校から私立に通い、電車で片道2時間近くかけて通学し、それを3年間も続けた。中学校時代の勉強時間の差はめちゃくちゃあったと思います。正直、中学校の時、妹としゃべったという記憶すらほとんどありません。まあ、それくらい妹は勉強していたということです。そんな妹やからこそ合格したんやと思います。兄妹なんやからもともとの差ってそんなにあるはずはないと思う。僕は今でも何かするとき、ほんまこれが努力できる限界なんかって自分に聞いてみる。まだできるんじゃないん?こんなんで胸張って努力したっていえるん?多分、妹やったらもっとやってるんじゃないん?妹、妹と引き合いに出すのは悪いかもしれんけど、近くにこれほど目標にできる人がいるのは幸せなことやと思う。
そんなわけでほんま努力してきた妹やから、大学に合格した喜びはもう言葉では言い表すことができないものだったと思う。それでも、この世の終わりを見たというような顔している僕を放ってはおけないと思ったのか一緒に帰ってくれた。まあ、あらぬことを考えているのではという心配もあったのかもしれない・・・。本当に申し訳ないことをしたと思う。結婚式と同じように大学受験の合格だって、普通人生で一回しか味わうことができない大きな感動やと思う。それをあんな形で終わらせてしまったことは後悔しています。もっと僕が気丈に振舞っていれば・・・。まあ、今やから言えることで当時、僕にそんな余裕はありませんでした。
天国と地獄が一緒に歩いている、そんな感じで周りの人は感じていたのかもしれません。
重い足を引きずりながら家に帰り、妹がお風呂に入っている時に、母親から電話がありました。
母親:「○○(妹の名前)は?」僕:「今お風呂。」母親:「いつ頃出るん?」僕:「わからん。」母親:「まあ、またお風呂でたら電話するように言うて。」僕に気を遣ってくれたのか僕のことには一切触れませんでした。でも、それが僕にとっては悔しくて、ぶち切れてしまいました。「そんな○○、○○いわんといてくれ!僕は落ちてるんやぞ!僕がどれだけ頑張ってきたか、そのこともしらんくせに、○○ばっかり言うな。ちょっとは落ちた僕の気持ちも考えろ!」そう、泣きながら言いました。そして、電話をたたきつけるように切りました。その日はもう電話は鳴ることはありませんでした。
自分の失敗を誰かのせいにして、もう何もかもが信じれなくなっていました。
夜は悔しくて、悔しくてなかなか眠れませんでした。でも、眠っている間だけでもこの悔しさを忘れられると思い、なんとか寝ようとしました。見た夢は「実は昨日の合格発表は予行で、本当の発表は今日です。っていうテレビでの放送があり、発表を見に行って、見事に合格していた。」というあまりに悲しい夢でした。起きて、夢だったことに気付くと涙がとまりませんでした。
大学の合格発表から数日は本当に辛かったことを覚えています。それでも、今は良い思い出だといえます。
それは、自分では後悔しないくらいに努力したと胸を張っていえるから。僕にできることは全てやったといえます。
努力したかどうかそれを決めるのは自分。周りから見て、そんなに努力しているように見えなくても、自分が努力したといえるのならそれでもいいと思う。
ただ、ある人と比べて自分はまだまだ努力が足りない、と思えるような人が近くにいるのなら、それは本当に幸せなことやと思う。そういう人が近くにいれば、やっぱり周りは比べてくるやろうけど。「お前はあいつ程努力してない!」っていう風に。その時は腹が立つし、人と比べるなって思うかもしれないけど、でも、自分はまだまだや、もっともっと可能性があるって思えることも事実やと思う。
僕には努力するという環境が整っていました。そして、僕がこのメッセージを伝えたい人にもその環境が整っていると僕は思っています。
2011年4月8日金曜日
自分を信じる
「自信とは何か・・・」
これは僕が受けた企業のグループディスカッションで与えられたディスカッションのテーマである。
その時は、6人で、自分が自信を持てるようになった経験を、まず語るところからはじめた。人それぞれ自信を持てるようになった出来事というのは違っていた。何かに成功した経験や、努力した過程、運などなど。
僕はその時、「自信を持つようになる出来事や経験は人それぞれ違うってことがわかったから、自信っていうのは何かを通して自分を信じられるようになることなんじゃないんかな」ってうまくまとめたつもりやった。結果は落ちてたけど(^_^;)
就職活動を始めて、いろんな企業の筆記試験や面接、グループディスカッションを受けてきた。って言ってもまだ数は少ないかもしれんけど。その度に一喜一憂していた。つまり、自信をなくしたり自信を回復したりしていた。それは僕の日記を見れば自分でもよくわかる。
就職活動を始めて、周りから「お前はこの仕事には向いてない、この仕事に向いてる」って言われることも多くなった。その度に自信をなくしたり自信を回復したりしていた。それも僕の日記を見れば自分でもよくわかる。
僕は、昔からそうやけど、他人に「お前はこうだ」とか決め付けられるのがものすごく嫌いやった。それが、他の人よりは僕のことを知っているであろう家族であったとしても。「僕のこと、どれだけ知ってるんな!」って、いっつも心の中で思ってた。それに、僕は結構弱い人間であり、影響されやすいから周りから「お前はこうだ」と決め付けられると、やっぱりそうなんかなーって思ってしまう。自分の能力はやっぱり限られてて、自分には無理なことがあるんかなって思ってしまう。そうやって自分自身を見限ってしまうのが嫌だった。でも、かといって決め付けられたことに対して言い返せる程の何かがあるわけでもなかった。
だから、最初に書いたとおり、今までは自信とは何かを通して自分を信じられるようになることやと思ってた。
ある企業の説明会に参加した。そこの社長の話を聞いた。社長は昔は根暗でいじめられっこだったらしい。勉強も全然できなくて、周りの人は誰も彼が将来社長になるなんて思っていなかっただろうと、語っていた。その彼が社長になった。
「それは自分には無限の可能性があると信じていたから」と彼は語った。
そこには何の根拠もない。根拠のない自信。でも自分を信じ続けた。
僕はこれを聞いて、自分の考えは間違ってるんじゃないかって思った。
自信とはやっぱり書いて字のごとく「自分を信じること」なのだと。
そもそも、自分のことを自分が信じてあげなくて誰が僕のことを信じてくれるんやろうか。自分を信じてあげないということは自分に対して失礼なことなのやと思った。だから自信を無くしたっていうことは僕自身に対して一番の屈辱なのではないんやろうか。僕に信じられなくなった僕はどうしたらいいんやろうか。
自信を無くした、自信を回復したなんてことを言っていた自分が恥ずかしい。何があってもずっと自分だけは自分のことをゆるがず信じてあげるべきやった。
そこに理由なんていらん。社長が言ったように根拠なんていらんのやと思った。
自分には無限の可能性がある。
小学6年生の頃、全国大会出場をかけたちびっ子マラソンのスタート一時間前。知り合いと話す父は「息子さん、優勝ねらってるんですか?」と聞かれたことに対して、「いや、こいつは無理やわー。」って答えてた。
僕は優勝し、全国大会に出場した。全国大会は7位だった。
誰も、他人のことなんてわからない。そして、自分でさえ自分のことはわからない。実際、このマラソン大会のとき、僕も全国大会に出場できるなんて夢にも思っていなかった。
でも、自分には無限の可能性がある。
他人が僕をどう決め付けようと、そんなことで自分を信じることに自信をなくしては駄目や。僕はきっと何でもできるはずや。
急には無理かもしれん。だから、「独り言」で書いておいた。周りの意見で自分を信じられなくなりそうになったときに、もう一度読むために・・・。
自分自身を信じていくために・・・。
就職活動って自分を成長させるっていうけど、ほんまそうなんかもしれん。
僕には夢がある。それもきっとかなえてみせる。
これは僕が受けた企業のグループディスカッションで与えられたディスカッションのテーマである。
その時は、6人で、自分が自信を持てるようになった経験を、まず語るところからはじめた。人それぞれ自信を持てるようになった出来事というのは違っていた。何かに成功した経験や、努力した過程、運などなど。
僕はその時、「自信を持つようになる出来事や経験は人それぞれ違うってことがわかったから、自信っていうのは何かを通して自分を信じられるようになることなんじゃないんかな」ってうまくまとめたつもりやった。結果は落ちてたけど(^_^;)
就職活動を始めて、いろんな企業の筆記試験や面接、グループディスカッションを受けてきた。って言ってもまだ数は少ないかもしれんけど。その度に一喜一憂していた。つまり、自信をなくしたり自信を回復したりしていた。それは僕の日記を見れば自分でもよくわかる。
就職活動を始めて、周りから「お前はこの仕事には向いてない、この仕事に向いてる」って言われることも多くなった。その度に自信をなくしたり自信を回復したりしていた。それも僕の日記を見れば自分でもよくわかる。
僕は、昔からそうやけど、他人に「お前はこうだ」とか決め付けられるのがものすごく嫌いやった。それが、他の人よりは僕のことを知っているであろう家族であったとしても。「僕のこと、どれだけ知ってるんな!」って、いっつも心の中で思ってた。それに、僕は結構弱い人間であり、影響されやすいから周りから「お前はこうだ」と決め付けられると、やっぱりそうなんかなーって思ってしまう。自分の能力はやっぱり限られてて、自分には無理なことがあるんかなって思ってしまう。そうやって自分自身を見限ってしまうのが嫌だった。でも、かといって決め付けられたことに対して言い返せる程の何かがあるわけでもなかった。
だから、最初に書いたとおり、今までは自信とは何かを通して自分を信じられるようになることやと思ってた。
ある企業の説明会に参加した。そこの社長の話を聞いた。社長は昔は根暗でいじめられっこだったらしい。勉強も全然できなくて、周りの人は誰も彼が将来社長になるなんて思っていなかっただろうと、語っていた。その彼が社長になった。
「それは自分には無限の可能性があると信じていたから」と彼は語った。
そこには何の根拠もない。根拠のない自信。でも自分を信じ続けた。
僕はこれを聞いて、自分の考えは間違ってるんじゃないかって思った。
自信とはやっぱり書いて字のごとく「自分を信じること」なのだと。
そもそも、自分のことを自分が信じてあげなくて誰が僕のことを信じてくれるんやろうか。自分を信じてあげないということは自分に対して失礼なことなのやと思った。だから自信を無くしたっていうことは僕自身に対して一番の屈辱なのではないんやろうか。僕に信じられなくなった僕はどうしたらいいんやろうか。
自信を無くした、自信を回復したなんてことを言っていた自分が恥ずかしい。何があってもずっと自分だけは自分のことをゆるがず信じてあげるべきやった。
そこに理由なんていらん。社長が言ったように根拠なんていらんのやと思った。
自分には無限の可能性がある。
小学6年生の頃、全国大会出場をかけたちびっ子マラソンのスタート一時間前。知り合いと話す父は「息子さん、優勝ねらってるんですか?」と聞かれたことに対して、「いや、こいつは無理やわー。」って答えてた。
僕は優勝し、全国大会に出場した。全国大会は7位だった。
誰も、他人のことなんてわからない。そして、自分でさえ自分のことはわからない。実際、このマラソン大会のとき、僕も全国大会に出場できるなんて夢にも思っていなかった。
でも、自分には無限の可能性がある。
他人が僕をどう決め付けようと、そんなことで自分を信じることに自信をなくしては駄目や。僕はきっと何でもできるはずや。
急には無理かもしれん。だから、「独り言」で書いておいた。周りの意見で自分を信じられなくなりそうになったときに、もう一度読むために・・・。
自分自身を信じていくために・・・。
就職活動って自分を成長させるっていうけど、ほんまそうなんかもしれん。
僕には夢がある。それもきっとかなえてみせる。
2011年4月6日水曜日
学校の先生
朝の番組で、学校の先生同士がお互いの授業を見て、批評し合い、よりよい授業を目指そうと取り組んでいる中学校の特集があった。その結果、校内暴力はなくなり、生徒の学力も向上したそうだ。この番組をみて、感じたことを書こうと思う。
昔のことを思い出してみた。小、中、高と受けてきた授業で印象に残っているものは・・・。ほとんど思い出せない。遠い昔のせいかもしれやんけど。でも、正直言って、面白いと思った授業はなかったのははっきり覚えている。体育や図工は面白かったのは覚えている。
僕は、浪人をしていて、その間予備校に通っていた。講義は1コマ90分で長かったけど、苦痛だと感じたことはなかった。睡魔と闘わなければならないことは多々あったけど、今でも予備校での講義は鮮明に覚えている。
学校での授業は忘れてしまい、予備校での講義は覚えている。この差はなんなんやろう。
学校の先生は公務員やから、よっぽどのことがない限り首にはならないし、給料も歳をとるごとに上がる年功序列賃金制だ。(たぶん)でも、予備校の講師は違う。人気のある講師は給料も高くなるし、そうじゃない講師は辞めさせられる。そういった意味で予備校の講師は必死なんやと思う。どうやれば学生の心をつかめるか、どうやればわかりやすいと思ってもらえるか、常にそれを考えているから面白いと思える講義ができるんやと思う。プロ意識を持っているんやと思う。学校の先生がそれを全くしていないとは言わんけど、意識の違いは明らかにあると思う。
学校の先生は、授業を教えるだけじゃなくて、生徒指導したり、その他やらなあかんことが多くある。ただ、勉強さえ教えていればいいわけじゃないってよく聞いたりする。確かにそうやと思う。僕の両親は先生をやっているから小さい頃からずっと二人を見ていてほんまにそうやと思う。でも、それならなおさら、予備校の講師のように勉強だけじゃなくて全てをこなせる人が先生になるべきで、そういう人を先生にするんやから今よりも高い給料をあげるというようにするべきやと思う。先生にも年俸制を取り入れるべきなんじゃないんかな。先生ほど人(まあ大半は生徒やけど)から評価をされる職業はなかなかないような気がするから年俸制は取り入れやすい制度やと思う。例えば、これは導入されているところもあるみたいやけど、生徒が先生の通知簿をつけるというものだ。さらに先生同士で互いに評価をつけるようにする。でも、これだけやと生徒うけするだけの授業になってしまいかねない。そこで、県下一斉のテストを実施して各教科平均点のよかった学校の、その教科担当の先生の評価を上げ、総合的に判断して給料を上げるとかって方法もあるんじゃないんかなー。
授業以外の仕事も確かに多いと思うけど、やっぱり学校生活で一番時間を使うのは授業なのは確かやと思う。先生には他にも仕事があるけど、学校生活の中心となる授業をよりよいものにすることこそが生徒のことを一番考えていることやと思う。最初に書いたように実際そうすることで、校内暴力がなくなったという例もあるし。予備校でも、めっちゃ悪そうな人でも人気のある講義を受けるために講義の前に席とりのために並んだりする。魅力のある授業は万人を惹きつけるんやと思う。
給料を上げるんやったら、やっぱり先生になるための試験ももっと難しくするべきやと思う。今も結構難しいと思うんやけど、これからは少子化がどんどん進むし、先生の数も減ってくるかもしれない。実際に授業をさせてみて、その進め方を評価するといった実践的なものも試験に取り入れるべきなんかもしれん。わざと授業を妨害するような生徒たちを入れ、それにどう対処するかを見るといった方法もあるかも。
勉強のできる人が良い先生になるとは限らんけど、やっぱり優秀な人が先生になるべきなんやと思う。優秀でかつ生徒のことを考えた授業をできる先生。そういう先生こそやっぱり尊敬されるんかもしれん。生徒に近すぎてもあかんのちゃうんかな。やっぱり生徒と先生の一線を引いた関係が保てんと駄目やと思う。
中学校の頃、ある先生が大学受験に失敗して、その日は未成年にも関わらず酒を飲んで酔いつぶれた。でも、その後は一生懸命勉強をして大学に合格したという話を笑いながらしてたけど、あんまりなんとも思わなかったように覚えている。そこにあんまり中身を感じなかったからかもしれん。先生として尊敬してなかったからかもしれん。予備校の先生の雑談は心を打つものが多かった。そこには、その講師の生きた経験が入っているからやと思う。何より僕は予備校の講師を尊敬していたというのが大きいんやろうけど。僕たちと同じような経験をしてるけど、僕らとはなんか違う。そう感じさせることが重要やと思う。
僕は塾で講師をやってて(そんな立派なもんじゃないけど)講習の時は黒板を使って授業をする。でも、やっぱりちゃんと聞いてくれていない人が多くて、雑談になると皆聞いてくれたりする。「あー、僕は先生になれるほど優秀ではないな。」といっつも感じる。何より生徒から尊敬されていないから、先生と生徒の一線をひけていない。
何回も言うけど、先生になる人はいろんな意味で優秀じゃないとあかんと思う。
僕は先生こそが、日本の将来を支えていると思うから・・・
昔のことを思い出してみた。小、中、高と受けてきた授業で印象に残っているものは・・・。ほとんど思い出せない。遠い昔のせいかもしれやんけど。でも、正直言って、面白いと思った授業はなかったのははっきり覚えている。体育や図工は面白かったのは覚えている。
僕は、浪人をしていて、その間予備校に通っていた。講義は1コマ90分で長かったけど、苦痛だと感じたことはなかった。睡魔と闘わなければならないことは多々あったけど、今でも予備校での講義は鮮明に覚えている。
学校での授業は忘れてしまい、予備校での講義は覚えている。この差はなんなんやろう。
学校の先生は公務員やから、よっぽどのことがない限り首にはならないし、給料も歳をとるごとに上がる年功序列賃金制だ。(たぶん)でも、予備校の講師は違う。人気のある講師は給料も高くなるし、そうじゃない講師は辞めさせられる。そういった意味で予備校の講師は必死なんやと思う。どうやれば学生の心をつかめるか、どうやればわかりやすいと思ってもらえるか、常にそれを考えているから面白いと思える講義ができるんやと思う。プロ意識を持っているんやと思う。学校の先生がそれを全くしていないとは言わんけど、意識の違いは明らかにあると思う。
学校の先生は、授業を教えるだけじゃなくて、生徒指導したり、その他やらなあかんことが多くある。ただ、勉強さえ教えていればいいわけじゃないってよく聞いたりする。確かにそうやと思う。僕の両親は先生をやっているから小さい頃からずっと二人を見ていてほんまにそうやと思う。でも、それならなおさら、予備校の講師のように勉強だけじゃなくて全てをこなせる人が先生になるべきで、そういう人を先生にするんやから今よりも高い給料をあげるというようにするべきやと思う。先生にも年俸制を取り入れるべきなんじゃないんかな。先生ほど人(まあ大半は生徒やけど)から評価をされる職業はなかなかないような気がするから年俸制は取り入れやすい制度やと思う。例えば、これは導入されているところもあるみたいやけど、生徒が先生の通知簿をつけるというものだ。さらに先生同士で互いに評価をつけるようにする。でも、これだけやと生徒うけするだけの授業になってしまいかねない。そこで、県下一斉のテストを実施して各教科平均点のよかった学校の、その教科担当の先生の評価を上げ、総合的に判断して給料を上げるとかって方法もあるんじゃないんかなー。
授業以外の仕事も確かに多いと思うけど、やっぱり学校生活で一番時間を使うのは授業なのは確かやと思う。先生には他にも仕事があるけど、学校生活の中心となる授業をよりよいものにすることこそが生徒のことを一番考えていることやと思う。最初に書いたように実際そうすることで、校内暴力がなくなったという例もあるし。予備校でも、めっちゃ悪そうな人でも人気のある講義を受けるために講義の前に席とりのために並んだりする。魅力のある授業は万人を惹きつけるんやと思う。
給料を上げるんやったら、やっぱり先生になるための試験ももっと難しくするべきやと思う。今も結構難しいと思うんやけど、これからは少子化がどんどん進むし、先生の数も減ってくるかもしれない。実際に授業をさせてみて、その進め方を評価するといった実践的なものも試験に取り入れるべきなんかもしれん。わざと授業を妨害するような生徒たちを入れ、それにどう対処するかを見るといった方法もあるかも。
勉強のできる人が良い先生になるとは限らんけど、やっぱり優秀な人が先生になるべきなんやと思う。優秀でかつ生徒のことを考えた授業をできる先生。そういう先生こそやっぱり尊敬されるんかもしれん。生徒に近すぎてもあかんのちゃうんかな。やっぱり生徒と先生の一線を引いた関係が保てんと駄目やと思う。
中学校の頃、ある先生が大学受験に失敗して、その日は未成年にも関わらず酒を飲んで酔いつぶれた。でも、その後は一生懸命勉強をして大学に合格したという話を笑いながらしてたけど、あんまりなんとも思わなかったように覚えている。そこにあんまり中身を感じなかったからかもしれん。先生として尊敬してなかったからかもしれん。予備校の先生の雑談は心を打つものが多かった。そこには、その講師の生きた経験が入っているからやと思う。何より僕は予備校の講師を尊敬していたというのが大きいんやろうけど。僕たちと同じような経験をしてるけど、僕らとはなんか違う。そう感じさせることが重要やと思う。
僕は塾で講師をやってて(そんな立派なもんじゃないけど)講習の時は黒板を使って授業をする。でも、やっぱりちゃんと聞いてくれていない人が多くて、雑談になると皆聞いてくれたりする。「あー、僕は先生になれるほど優秀ではないな。」といっつも感じる。何より生徒から尊敬されていないから、先生と生徒の一線をひけていない。
何回も言うけど、先生になる人はいろんな意味で優秀じゃないとあかんと思う。
僕は先生こそが、日本の将来を支えていると思うから・・・
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